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カテゴリ:教員コラム

人にめぐりあう幸せ(その2)

先週の日曜日、啓新高校ソフトボール部との合同練習があった。あいにく朝から雨が降り、グラウンドの状態は良くない。しばらくして雨が上がり、合同練習が始まった。

啓新高校の女子ソフトボール部は三国高校と並んで、県内トップの強豪校である。ボール回しをしていても、球は速く、ビシッといい音がしてボールがグラブに収まる。大東の生徒も頑張っているが、まだまだ力不足は否めない。そうこうしているとシートノックが始まる。高校生は機敏な動きだが、大東の三遊間も負けてはいない。守備範囲も広く、足の運びもいい。なかなかやるなあと感心して見ていた。他のポジションの生徒も必死でボールに食らいつく。簡単なエラーはしない。練習試合でも、なかなか点を取られないのがわかるような気がする。そのうちに大東中の生徒をランナーにして、より実践的な練習が始まった。すると、大東のコーチが一人一人に走塁のコツを身振り手振りで教え始めた。ひんぱんに声をかけ、うまくいった時は大声で褒め、生徒をその気にさせていく。うまいものだ。そんな練習がかれこれ30分以上続いた。

最近、走塁が上手くなったと思ったが、その秘密が解けたような気がした。中学女子のソフトボールは初心者も多いから、ピッチャーが打たれて点を取られることより、四球やエラーがからんで点を取られることが多い。大東の練習試合を見ていると、四球やエラーで出塁したランナーが、いつのまにか3塁にいることがよくある。相手のミスを見逃さず、「私も次の塁を狙えたよ!」と楽しんでいるような気さえする。この姿を見て、ふと思い出したのが「弱くても勝てます 〜開成高校野球部のセオリー〜」という本だった。二宮和也が主演のドラマにもなったから、覚えている人もいるかもしれない。開成高校は毎年二百人近くが東京大学に合格するという日本一の進学校である。その野球部が自校のグラウンドで練習できるのは週1回。それも3時間ほどの練習で、東京都大会でベスト16入りを果たして大きな話題になった。監督は「(他の強豪校と)同じことをしていたらウチは絶対に勝てない。普通にやったら勝てるわけがないんです」と言い切る。「守備は以外に差が出ない」と割り切り、練習時間のほとんどを打撃練習に当てる。

勝とうと思ったら、相手より点を取ればいい。四球やエラーは必ずあるから、貪欲に塁を進めれば点が入る確率は高くなる。ランナーが3塁にいれば、ピッチャーは緊張し、キャッチャーがボールをこぼせば点が入る。走塁が上手になったのは、コーチの、普段からの細かい指導の賜物か、と納得した。とにかく、果敢に次の塁を狙う。この日も高校生の守備の隙を突き、次の塁を狙わせ、うまくいったら大きな声で褒め、失敗は問わない。この人はさすがだなあと思った。

そもそもコーチは福井国体の選手で、国体の遺産を生かすために福井県が大東中に派遣してくれた指導者である。中国には「千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず」という言葉がある。いかに才能のある人がいても、それを認めて用いてくれる人は少ないという例えであるが、彼は生徒の力を引き出すのが実にうまい。そして、素人集団が勝つための、最善の方法を生徒に教えて、実践させている。なかなか得難い人物である。できるだけ長く大東中に関わってくれることを切に願っている。

コロナの影響 ―学校が3ヶ月休校だったこと-

3月2日の午後から3ヶ月、学校は休校だった。6月から再開されて、4ヶ月が経ち、学校は落ち着いたように見える。

でも最近、実感していることがある。それは、小学校から中学校への切り替えが遅れてしまったことだ。例年なら、4月に入学すれば、生徒の意識が切り替わる。「中学生になったから、勉強しないと、高校受験もあるし」という気持ちになる。

でも今年は、だらだら休校が続き、はっきりした区切りもなく学校が再開されたので、なかなかそういう気持ちにならない。その証拠に、今までなら平日の夕方に「中学生が公園で遊んで迷惑です。なんとかしてください」というような電話はなかった。中学生になったら、休日はともかく、平日は「勉強しなければならないな」「遊んでちゃ、まずいな」という意識がある。

遊ぶ前に勉強をしないと、中学校では授業についていけない。特に英語や数学は、レンガを積み上げていくような教科だから、1年の内容が分からないと2年、3年になったらさっぱり分からなくなる。受験が近づく10月、11月頃になってやっと、そのことに気づくけれど、その時にはもう間に合わない。「〇〇高校で☓☓やりたいんですけど」と相談を受けても、「もうちょっと勉強しておけばよかったな」という話になってしまう。

コロナウイルス感染症で教育格差は広がったというけれど、「オンライン環境」のせいではなくて、「小学生気分(休校気分)が抜けない」ことの方が大きい。

保護者のみなさん、お子さんは大丈夫ですか? 今ならまだ、間に合います。

 

人にめぐりあう幸せ

あれは、二年生が入学する前。ソフトボールをさせたいという親から相談があった。

その時は、二年生は十人以上いたけれど、一年生はひとりだったので、新入部員が入らなかったら、廃部にするか合同チームにするかしかなかった。隣の学校の校長先生にも電話をかけた。幸い部員がたくさん入ったので、合同チームの話はなくなり、二年生がひとり、残りは一年生ばかりのチームになった。

最初は、負け続け。素人が多いのだからしかたがない。夏になって三年生が引退し、そのポジションには、経験豊富な一年生が入った。

真面目が信条の素人監督は、やせるほどノックバットを振り、戦術を勉強して生徒に応え、技術は超一流のコーチは指導力もピカイチで、何より生徒をのせるのがうまい。

経験者が少ない素人集団も場数を踏むにつれ、ボールを遠くまで投げられるようになり、打てば強い当たりが飛ぶようになった。とりわけ走塁がうまくなった。出塁すれば、相手の隙を見逃さず貪欲に次の塁を狙う。 点の取れる、見ていて楽しい試合になってきた。どの選手も大きな声で伸び伸びプレーしている。いい仲間が集まり、誠実な顧問と経験豊富な指導者がコンビを組んで生徒の背中を押す。人に巡り合い、人に恵まれるのが一番の幸せだ。ソフトボール部の生徒は試合が楽しくてしかたないと思う。

がんばれ、大東中学校!

 

この頃、思うこと!

「現代経営学」や「マネジメント」の発明者であるピーター・ドラッカーの本の中に、次のような話がある。

紀元前440年頃、ギリシャの彫刻家フェイディアスは、アテネのパンテオンの屋根に建つ彫刻群を完成させた。
フェイディアスの請求書に対し、アテネの会計官は支払いを拒んだ。

「彫像の背中は見えない。見えない部分まで 彫って請求してくるとは何事か」

それに対し、フェイディアスは 答えた。

「そんなことはない。神々が見ている」

苦労をして子どもを育てていた母親の口癖は、

「うそをつくな。お天道様(てんとうさま)は見ている。」だった。

そう言われて育ったせいか、今でもどこかで誰かが自分を厳しい眼で見ているような気がしている。いつも、お天道様には「手を抜くな」とか「うそをつくな」とか「人に迷惑をかけるな」と言われている。でも、それは「お天道様はいつも自分を見ていてくれる」ということであり、「自分はお天道様に守られている」ということでもある。自分の人生についてはとても楽観的で、「(お天道様に見守られているから)自分は最終的には運がいい」と思っているから、つらいときもがまんができた。

「お天道様が見ている」といっても、今の中学生は話を聞いてもくれないだろう。でも、人が幸せに生きていくには、お天道様のような絶対的な存在は必要なので、今の時代のお天道様ロスはとても大きくて痛い。

神は細部にこだわる!

読書は趣味なので、よく本屋さんに行く。手にとって、中身を確かめられるから、ネットでは買わない。最近がっかりするのは、本が無造作に並べられていることだ。きちんと元に戻さない人が増え、扱いがずいぶん雑になったと思う。だから、崩れている本に目が行き、次から次へとそろえていく自分を周りの人は変な目で見ているにちがいない。

「神は細部に宿る」 建築家 ミース・ファン・デル・ローエの言葉だ。

放課後、廊下から教室の中をのぞいたとき、窓の鍵がかかっていて、机といすのタテヨコがそろい、ゴミが落ちていないのをみると、先生の目は細部まで行き届いていると思う。きっと生徒も喜んでいるだろう。きれいな教室を汚く使おうとする生徒はいないし、きれいなところでゴミを出すのは気が引けるだろう。自然、心が穏やかになってくる。以前、「トイレの神様」という歌が流行った。神はきれいなところが好きだから、きれいなトイレには神が宿る。トイレットペーパーがたれ下がっていたり、芯がそのまま残っていたりするトイレには神は宿らない。次に使う人のことを考える。きれいなところは誰でもうれしい。汚くなりがちなところだったら、なおさらうれしい。ちょっとした心遣いは人を幸せにする。