school-blog

カテゴリ:教員コラム

まずは、試してみる!

人は「見たり」「聞いたり」「試したり」、この3つが大事なのだが、多くの人は「見たり」「聞いたり」ばかりで「試す」ことをほとんどしない。試す場合は失敗がつきもの、しかしそれを恐れていてはダメだ。みんな、怖くて試さない、それをやるんだ 

こう語ったのは、ホンダの創業者 本田宗一郎さんだ。試す時には失敗がつきものだけど、失敗する前から批判や非難がやってくるから、それが怖くて試すのをためらう。練習試合は本番の大会で勝つためにいろいろ試してみる機会だから、時にはうまくいかずにボロ負けすることもあるはずだ。でも、その練習試合でさえ「負けるな、パーフェクトゲームで勝て」と無言の圧力をかけてくる。結果にこだわって、人の成長を長い目では見てくれなくなった。でも、「勝てば自信がつくが、負けた時ほど学ぶことはない」ことを忘れている・・・ 

ある生徒との会話

「この前のテスト、数学がボロボロでした。時間がないと分かったら、急に頭が真っ白になってしまって」

「犠牲を最小限に抑える方法を考えるいい機会だな」

「どうするといいですか」

「例えば、5分たっても解けない問題はとばすとか、得意な問題に時間をかけて解いて、80点のうちの65点を確保し、あとは1点でも多く稼ぐ方法もある。やみくもに1番から順番に解くのはオススメしないな」

「なるほど」

「そもそも、君ができなかった問題。みんなが解けないなら、できなくても差はつかないよ。そう考えれば、あっさりあきらめて次に進んだ方がよかったかもしれない。昔あったな、誰も解けなかった問題」

「へえ〜。あったんですか、そんな問題」

こんな会話は、テストで失敗した時しかできない。本番じゃないんだから、失敗してもいい。自信は失うかもしれないけど、学ぶことは多い。だからそれを生かせばいい。いつも勝ち負けだけを気にしていたら、勝てずとも、一方的な防戦をなんとか堪え忍んで、引き分けに持ち込む方法など身につくはずがない。人は負けたときや失敗したとき、より多くのことを学ぶのだ。だから、試してみることが大切だ。

あと一本!(はじける瞬間)

剣道や柔道は競技人口が少ないので、1つのチームに経験者が3人以上そろうことは滅多にない。団体戦は5人でひとチーム。経験者2人が強くても、チームが必ず勝てるわけではない。2人が圧勝しても残りの初心者3人が負ければ、2対3で必ず負ける。勝つためには、3人のうちの少なくとも1人が、勝つか引き分けに持ち込まなければならない。今日の女子の団体戦も中学から始めた3人のうちの1人が、粘りに粘って引き分けたおかげで、決勝トーナメントに進出し、3位入賞を果たすことができた。そして、別の初心者もとてもいい剣道をしていた。前へ前へと足を運び、大きな声を出して面や籠手を狙って竹刀を振る。「なんとか一本取ってほしいなあ」と思いながら試合を観ていた。その時ふと、柔道部の顧問をしていたときのことを思い出した。
その学年は5人いて、先鋒の軽量級の生徒は、小学校の県チャンピオンだった。中堅の中量級の選手も小学生の時から柔道を始め、中3の春には県ベスト4の実力があった。もう一人は、経験者ではあったがそれほど強い選手ではなく、残りの二人は中学校に入ってから始めた初心者だった。一人は70kgほどの体重で身長も170cm近くあったが、寡黙な生徒で人と話をしている姿はもちろん、笑った姿も見たことがない。もう一人は体重は100kg近くあり、身長も180cmぐらいあったが、色白のおとなしい生徒で、柔道を選んだ理由がわからないような生徒だった。
柔道の練習相手は、自分より体が大きくて体重の重い選手がいい。だから、軽量級の県チャンピオンは中量級の寡黙な生徒を練習相手に選び、中量級の選手は重量級のおとなしい生徒を選ぶ。体格は大きくても、経験には勝てず、素人の二人はいつも投げられ、 押さえ込まれ、寝技をかけられていた。それでも二人は休むことなく練習を続けていたが、練習相手にされるのは嫌だっただろうし、何度も部を辞めたいと思ったに違いない。
そんな練習が毎日続き、3年夏の地区大会を迎えた。団体戦の準決勝。いつものように経験者二人が勝ち、初心者と少し経験者の二人が負け、2勝2敗で大将戦となった。こちらの大将は体は大きいがおとなしい初心者の彼。相手はその前の県大会で3位入賞。夏の県大会では優勝と全国大会出場を狙っていた。力の差は歴然で、試合開始から一方的に攻められた。途中、相手が技をかけそこない、二人ともひざまずきなから倒れた。相手は攻めてこないと思ったのか、首に隙ができた。すかさずコーチが「絞めろ!」と声をかける。彼は相手の柔道着の襟をつかみ、絞めにかかる。「回れ、回れ」とみんなが声をかける(回るとうまく首が絞まる)。顔を真っ赤にして必死になって回ろうとしていたら、あっさり相手が彼の肩をたたき、ギブアップした。「やったな」「決勝進出や」既に勝った二人が声をかける。おとなしい彼は何も言わず、ただにっこり笑う。2年間の努力が見事にはじけた瞬間だった。もう一人の寡黙な初心者も個人戦で3位入賞、県大会に出場した。
「努力は人を裏切らない」・・・。その瞬間を見て、思わず涙が出そうになった。
そして今日。一生懸命足を動かし、技を繰り出し、何度も何度も一本を取りに行ったが、団体戦では出なかった。でも近いうちに必ず一本取り、この初心者女流剣士もブレイクするに違いない。必死で取りにいった一本が自信となり、固く閉じていた扉が一気に開いて、すばらしい景色が見えるはずだ。願わくば、その瞬間に立ち会いたいものだ。

がんばれ、大東中学校!

人にめぐりあう幸せ(その2)

先週の日曜日、啓新高校ソフトボール部との合同練習があった。あいにく朝から雨が降り、グラウンドの状態は良くない。しばらくして雨が上がり、合同練習が始まった。

啓新高校の女子ソフトボール部は三国高校と並んで、県内トップの強豪校である。ボール回しをしていても、球は速く、ビシッといい音がしてボールがグラブに収まる。大東の生徒も頑張っているが、まだまだ力不足は否めない。そうこうしているとシートノックが始まる。高校生は機敏な動きだが、大東の三遊間も負けてはいない。守備範囲も広く、足の運びもいい。なかなかやるなあと感心して見ていた。他のポジションの生徒も必死でボールに食らいつく。簡単なエラーはしない。練習試合でも、なかなか点を取られないのがわかるような気がする。そのうちに大東中の生徒をランナーにして、より実践的な練習が始まった。すると、大東のコーチが一人一人に走塁のコツを身振り手振りで教え始めた。ひんぱんに声をかけ、うまくいった時は大声で褒め、生徒をその気にさせていく。うまいものだ。そんな練習がかれこれ30分以上続いた。

最近、走塁が上手くなったと思ったが、その秘密が解けたような気がした。中学女子のソフトボールは初心者も多いから、ピッチャーが打たれて点を取られることより、四球やエラーがからんで点を取られることが多い。大東の練習試合を見ていると、四球やエラーで出塁したランナーが、いつのまにか3塁にいることがよくある。相手のミスを見逃さず、「私も次の塁を狙えたよ!」と楽しんでいるような気さえする。この姿を見て、ふと思い出したのが「弱くても勝てます 〜開成高校野球部のセオリー〜」という本だった。二宮和也が主演のドラマにもなったから、覚えている人もいるかもしれない。開成高校は毎年二百人近くが東京大学に合格するという日本一の進学校である。その野球部が自校のグラウンドで練習できるのは週1回。それも3時間ほどの練習で、東京都大会でベスト16入りを果たして大きな話題になった。監督は「(他の強豪校と)同じことをしていたらウチは絶対に勝てない。普通にやったら勝てるわけがないんです」と言い切る。「守備は以外に差が出ない」と割り切り、練習時間のほとんどを打撃練習に当てる。

勝とうと思ったら、相手より点を取ればいい。四球やエラーは必ずあるから、貪欲に塁を進めれば点が入る確率は高くなる。ランナーが3塁にいれば、ピッチャーは緊張し、キャッチャーがボールをこぼせば点が入る。走塁が上手になったのは、コーチの、普段からの細かい指導の賜物か、と納得した。とにかく、果敢に次の塁を狙う。この日も高校生の守備の隙を突き、次の塁を狙わせ、うまくいったら大きな声で褒め、失敗は問わない。この人はさすがだなあと思った。

そもそもコーチは福井国体の選手で、国体の遺産を生かすために福井県が大東中に派遣してくれた指導者である。中国には「千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず」という言葉がある。いかに才能のある人がいても、それを認めて用いてくれる人は少ないという例えであるが、彼は生徒の力を引き出すのが実にうまい。そして、素人集団が勝つための、最善の方法を生徒に教えて、実践させている。なかなか得難い人物である。できるだけ長く大東中に関わってくれることを切に願っている。

コロナの影響 ―学校が3ヶ月休校だったこと-

3月2日の午後から3ヶ月、学校は休校だった。6月から再開されて、4ヶ月が経ち、学校は落ち着いたように見える。

でも最近、実感していることがある。それは、小学校から中学校への切り替えが遅れてしまったことだ。例年なら、4月に入学すれば、生徒の意識が切り替わる。「中学生になったから、勉強しないと、高校受験もあるし」という気持ちになる。

でも今年は、だらだら休校が続き、はっきりした区切りもなく学校が再開されたので、なかなかそういう気持ちにならない。その証拠に、今までなら平日の夕方に「中学生が公園で遊んで迷惑です。なんとかしてください」というような電話はなかった。中学生になったら、休日はともかく、平日は「勉強しなければならないな」「遊んでちゃ、まずいな」という意識がある。

遊ぶ前に勉強をしないと、中学校では授業についていけない。特に英語や数学は、レンガを積み上げていくような教科だから、1年の内容が分からないと2年、3年になったらさっぱり分からなくなる。受験が近づく10月、11月頃になってやっと、そのことに気づくけれど、その時にはもう間に合わない。「〇〇高校で☓☓やりたいんですけど」と相談を受けても、「もうちょっと勉強しておけばよかったな」という話になってしまう。

コロナウイルス感染症で教育格差は広がったというけれど、「オンライン環境」のせいではなくて、「小学生気分(休校気分)が抜けない」ことの方が大きい。

保護者のみなさん、お子さんは大丈夫ですか? 今ならまだ、間に合います。

 

人にめぐりあう幸せ

あれは、二年生が入学する前。ソフトボールをさせたいという親から相談があった。

その時は、二年生は十人以上いたけれど、一年生はひとりだったので、新入部員が入らなかったら、廃部にするか合同チームにするかしかなかった。隣の学校の校長先生にも電話をかけた。幸い部員がたくさん入ったので、合同チームの話はなくなり、二年生がひとり、残りは一年生ばかりのチームになった。

最初は、負け続け。素人が多いのだからしかたがない。夏になって三年生が引退し、そのポジションには、経験豊富な一年生が入った。

真面目が信条の素人監督は、やせるほどノックバットを振り、戦術を勉強して生徒に応え、技術は超一流のコーチは指導力もピカイチで、何より生徒をのせるのがうまい。

経験者が少ない素人集団も場数を踏むにつれ、ボールを遠くまで投げられるようになり、打てば強い当たりが飛ぶようになった。とりわけ走塁がうまくなった。出塁すれば、相手の隙を見逃さず貪欲に次の塁を狙う。 点の取れる、見ていて楽しい試合になってきた。どの選手も大きな声で伸び伸びプレーしている。いい仲間が集まり、誠実な顧問と経験豊富な指導者がコンビを組んで生徒の背中を押す。人に巡り合い、人に恵まれるのが一番の幸せだ。ソフトボール部の生徒は試合が楽しくてしかたないと思う。

がんばれ、大東中学校!

 

この頃、思うこと!

「現代経営学」や「マネジメント」の発明者であるピーター・ドラッカーの本の中に、次のような話がある。

紀元前440年頃、ギリシャの彫刻家フェイディアスは、アテネのパンテオンの屋根に建つ彫刻群を完成させた。
フェイディアスの請求書に対し、アテネの会計官は支払いを拒んだ。

「彫像の背中は見えない。見えない部分まで 彫って請求してくるとは何事か」

それに対し、フェイディアスは 答えた。

「そんなことはない。神々が見ている」

苦労をして子どもを育てていた母親の口癖は、

「うそをつくな。お天道様(てんとうさま)は見ている。」だった。

そう言われて育ったせいか、今でもどこかで誰かが自分を厳しい眼で見ているような気がしている。いつも、お天道様には「手を抜くな」とか「うそをつくな」とか「人に迷惑をかけるな」と言われている。でも、それは「お天道様はいつも自分を見ていてくれる」ということであり、「自分はお天道様に守られている」ということでもある。自分の人生についてはとても楽観的で、「(お天道様に見守られているから)自分は最終的には運がいい」と思っているから、つらいときもがまんができた。

「お天道様が見ている」といっても、今の中学生は話を聞いてもくれないだろう。でも、人が幸せに生きていくには、お天道様のような絶対的な存在は必要なので、今の時代のお天道様ロスはとても大きくて痛い。

神は細部にこだわる!

読書は趣味なので、よく本屋さんに行く。手にとって、中身を確かめられるから、ネットでは買わない。最近がっかりするのは、本が無造作に並べられていることだ。きちんと元に戻さない人が増え、扱いがずいぶん雑になったと思う。だから、崩れている本に目が行き、次から次へとそろえていく自分を周りの人は変な目で見ているにちがいない。

「神は細部に宿る」 建築家 ミース・ファン・デル・ローエの言葉だ。

放課後、廊下から教室の中をのぞいたとき、窓の鍵がかかっていて、机といすのタテヨコがそろい、ゴミが落ちていないのをみると、先生の目は細部まで行き届いていると思う。きっと生徒も喜んでいるだろう。きれいな教室を汚く使おうとする生徒はいないし、きれいなところでゴミを出すのは気が引けるだろう。自然、心が穏やかになってくる。以前、「トイレの神様」という歌が流行った。神はきれいなところが好きだから、きれいなトイレには神が宿る。トイレットペーパーがたれ下がっていたり、芯がそのまま残っていたりするトイレには神は宿らない。次に使う人のことを考える。きれいなところは誰でもうれしい。汚くなりがちなところだったら、なおさらうれしい。ちょっとした心遣いは人を幸せにする。

 

子どもを褒めるのは難しい!

前にも話したことがあるが、人は褒めることが得意ではない。それは、自分が褒められて育ってこなかったからだろう。子どもが自分なりの努力をして、結果を残したとする。最初は「がんばったね」という言葉から始まっても、いつのまにか「おまえならできると思った」となり、「もっと頑張れるんじゃない」とか「次の目標は」という話になってしまう。結局、子どもを叱咤激励しているだけで、がんばったことの褒め言葉にはなっていない。だから、いつもと違ってがんばっているなあと感じたら、たいした結果が出ていなくても、がんばっていたことだけを手放しで褒めたなら、子どもはもっと伸び伸びと、次もがんばろうとするに違いない。いつだって、子どもが一番うれしいのは親に褒められ、認められた時だからだ。 

宇宙兄弟を読んでいたら、こんな言葉があった。 

  迷った時はね

  「どっちが正しいか」なんて考えちゃダメよ

  「どっちが楽しいか」で決めなさい 

理詰めは人を納得させることはできても、人を動かすことはできない。思いっきり褒めてやらないと、人は動かない。

イトーヨーカ堂の設立者 伊藤雅俊さんの言葉

「お客さんは来ないもの」「取引をしたくてもお取引先は簡単には応じてくれないもの」「銀行は貸していただけないもの」、そのようなないない尽くしから、商いというものは出発するのだよ 

「商売とはね、お客さまを大事にすること、そして信用を大事にすること、それに尽きるのだよ」 

お客さまには「見えているお客さま」と「見えていないお客さま」の二種類のお客さまがいらっしゃるのです。商売の難しいところは、「見えているお客さま」に満足していただくだけでなく、「見えていないお客さま」のことも想定しなければならない点です 

日々の商売を力強くすすめていくために大事なことの一つは、いわゆる世間というものを信頼することだと思います

伊藤雅俊さんには「商いの心くばり」というすばらしい本があります。読みすすめると、あちらこちらで心に響く言葉に出会います。それがどれだけ仕事の役に立ったことか。興味のある方は是非、手にとってみてください。オススメの一冊です。

久しぶりにオススメの本!

弱虫の生きざま ー身近な動植物が教えてくれる弱者必勝の戦略ー 著者 亀田恭平 出版社  KADOKAWA

NHKのニュースで取り上げられているのをたまたま見て、とても面白そうに思えたので、早速買って読んでみた。身近な生き物は知恵を絞り、さまざまな工夫や策をこらして自然界で生き残ろうとしている。その生きざまは私たちの生活を豊かで楽しくしてくれる手がかりとなるとともに、自然の神秘やすばらしさも再確認させてくれる。ヘタな自己啓発の本よりも役にたつ、大人にもオススメの本である。ぜひ、読んでみてください。

 

成績表をお渡しします!

本日、3学年とも成績表をお渡しします。1,2年生は定期考査の結果を、3年生は8月に実施した確認テストと定期考査の結果を載せてあります。回収はしません。

せっかくなので、成績表の見方について、お話ししたいと思います。

まず、成績表をもらうと、合計点や番数に目が行きがちですが、それだけでは、生徒の成績を理解したことにはなりません。もう少し考えてみると、子どもをほめるポイントが見つかります。

まず、番数ですが、テストはみんなも同じように勉強しているので、そう簡単には上がりません。ですから、上がっていたら、まずは手放しにほめてあげましょう。一生懸命、テスト勉強をした証拠です。

次に、それぞれの教科の点数をみて、できている教科をほめてあげましょう。人は、苦手な教科をみて、「次はこの教科をがんばれば、もっとよくなるね」というようなことを言ってしまいがちです。でも、苦手な教科を得意にするより、得意な教科をさらに伸ばす方が子どものやる気が出ます。できなかった教科は目をつむり、できる教科をさらに伸ばすよう、話をしてあげましょう。心配しなくても、得意な教科が増えれば、苦手な教科もできるようになってきます。

そして、今度はそれぞれの教科の点数をみます。これは教員の経験で、根拠はありませんが、80点以上あれば、習った内容は理解していると考えていいでしょう。50点以下なら、本人の努力だけで内容を理解するのは難しいです。必ず誰かの手助けが必要です。友達や兄弟、先生などの力が必要です。50点以上なら本人の努力次第です。50点を60点にするのに1の努力が必要なら、60点を70点にするのに2の努力、70点を80点にするに3の努力、80点を90点にするには6の努力が必要です。90点からは1点上げるのに同じだけの努力が必要です。

中学校の成績は、学習習慣がものをいいます。予習で教科書を読み、授業を受け、課題やワークに取り組めば、よい成績を残せるようになっています。頭のよさだけでは、安定した成績を残せません。家に帰った後、宿題をしてから自分の好きなことをするか、自分の好きなことをしてから宿題をするかの差とも言えます。成績が上がらず悩んでいる人は、早く教科の先生に相談に行くといいです。よいアドバイスがもらえると思います。

次の大きなテストは、1,2年生は11月4,5日に確認テストがあります。3年生は10月1,2日に確認テスト、11月4,5日に学力診断テストがあります。まずは成績を分析して、自分の得意な教科は何か、どうやったらもっと伸ばせるのか、考えてみることから始めてみましょう。

 

ネット時代・・・

田中角栄元総理大臣といっても、生徒のみなさんはもちろん、保護者の皆さんも余り知らないかもしれない。金権政治で日本中から批判されたが、人の心がわかる人だったことは間違いない。そうでなければ、小学校しか出ていない人が総理大臣になれるはずはない。

その田中角栄元総理大臣の言葉に、「人の悪口は5分もたてば、相手に届く。遅くても夕飯までには届く。でもほめる話は1年経っても届かない」というのがある。

ネット時代になって、人の批判は瞬時に、そしてどこでも届くようになった。アメリカの大統領の悪口だって、いつでも書けるし、ネットですぐに届く。

でも、人をほめる話はネット時代になっても一向に届かない。ほめようと思えば、いつでもどこでも届くはずだが、そんな話は滅多にお目にかからない。新しいことをやれば、批判はくるけれども、よくやったという言葉はこない。がんばっていますね、という言葉すらやってこない。

先日、「少年の主張」コンクール福井県大会の審査をする機会があった。県下の中学校から8名の生徒の作品が選ばれ、審査するものであった。

その中の一つに、「人は自分の見たいものしか見ない」という言葉があった。誰でもそうだと思うが、人は人の良いところを見つけるのが苦手である。人をほめるのはもっと苦手である。だから、「〇〇していただいてありがとうございます。でも、△△。・・はいかがなものでしょうか」という話になる。

人の批判からは、新しく前向きなものは生まれてこない。先が見通せない不安な時代に、批判ばかりがやってくるのなら、何かやろうという気持ちは起きてこない。コロナウイルス感染症に感染しているとわかると、あちこちから誹謗・中傷がやってくる。医療従事者や介護従事者、飲食店が真っ先に批判されるのでは、たまったものではない。ネット時代だからこそ、人ががんばっている話や人をほめる話を発信していかなければならない。それが今の日本に欠けていることだ。

コロナ時代・・・

今年の夏休み、屋根の瓦が割れているのを見つけ、直さないと、と思って、ネットで業者を探すと、教え子の両親が経営していた会社を見つけた。家の近くでもあり、料金も手頃だったので、電話するとすぐに来るという。家で待つこと20分、名刺をもらうと見覚えのある名前があり、代表取締役と書かれていた。

「いくつになった」

「40です」

「25年ぶりやな」

「覚えていてくれたんですか」

「もちろん」

お盆の前には、「弟が話したいと言っています」というメールがやってきた。こちらは30年以上会っていない。どこで働いているかは知っているけれど、会うことはないので、せっかくだからと思い、電話して替わってもらった。さんざん、からかわれたが、次に話す機会はないかもしれないと思うと、とてもうれしかった。

コロナ時代・・・。

一番心配しているのは、中学3年生の時、クラスみんなで何かをいっしょにやったという思い出がないことだ。修学旅行もなくなり、春夏の部活動の大会もない。学校祭も縮小となれば、20年後、30年後に同窓会をしても、共通の思い出がない。共通の思い出がなければ、みんなで集まろうという気持ちは生まれて来ない。だから、3年生のみんなは真剣になって、自分のクラスで自分たちの思い出づくりをしたほうがいい。こんな時だからこそ、みんなで何か一つのことに取り組む。気の合う仲間とだけやるのではなく、クラスみんなで何かをする。今はわからないかもしれないけれど、思い出がないというのはあとあとまで尾をひく。それは1,2年生も同じだ。

どの学年も授業の遅れはもう解消しているので、それなりのまとまった時間をあげることもできる。あとは、みんなの気持ちだけだ。クラスみんなで楽しむ。それがコロナ時代に打ち勝つ方法だ。

校長 湯口 和弘

今日の大東中学校!

放課後、3年生の生徒が英作文を持ってきました。毎回毎回、内容がよくなっているので大変楽しみです。ついでに受験テクニックも伝授して、目標の高校に合格してくれれば、と思います。話していると、とても意識が高いので、間違いなく合格すると思います。

いつも6時を過ぎたころから、学校中を回ります。感心するのは南校舎2階、3階のトイレです。清掃道具がきちんと整頓されています。使い終えたトイレットペーパーの芯も残っていませんし、床にトイレットペーパーの切れ端も落ちていません。たぶん、学校中で一番きれいな場所だと思います。毎日清掃してくれる生徒に大変感謝しています。ありがとうございます。次に感心するのは1年生の教室です。机とイスがきちんと並んでいて、秩序があります。トイレがきれいな学校は、いい学校です。生徒玄関のくつがそろっている学校も自慢できます。「神は細部に宿る」といいます。ほんの小さな違いが積み重なって、大きな差となってあらわれるのではないでしょうか!

いよいよ、梅雨入り!

おはようございます。学校が始まり、2週間が経ちました。5教科の授業は、どの学級も46時間程度ありました。昨年の3月にできなかった授業は40時間程度なので、やっとその分が終わりました。これからも特別時間は続き、なんとか夏休みまでに、例年と同じ進度まで進めたいと考えています。

さて、毎朝学校に来てやっていることは、生徒玄関に咲いている花の世話です。

世話といっても水をやり、咲き終わった花を摘み取るだけですが、20分ぐらいの時間がかかります。

植物は大変正直で、5月のゴールデンウィークに水をやり忘れた日が3日ほど続いたら、すぐに元気をなくし、枯れ始めました。これは、まずいとその日から毎日かかさず水をやり続けています。しかし、素人はどのくらい水をやっていいのか、わかりません。花壇の世話をしていただいている人に相談すると、「水はやりすぎると、植物が元々持っている水を吸収する力がつかない」と言われました。植物も過保護はダメだということです。

「咲き終わった花を早めに摘み取るといい」とも言われました。「花が咲き終わると、その花が使っていた養分は種になるのに使われる。だから種に養分がいかないように花を摘み取れば、その養分は他の花を咲かせるために使われ、次々に花を咲かせますよ」と言われて、実践してみると確かに、次から次へと花が咲き、きれいな状態が長持ちして、かれこれ1ヶ月以上経っています。やはり長年、栽培に携わっている人の知識や経験は違います。すぐに成果があらわれるのもすばらしいです。

では、今日も工夫して楽しく生活しましょう!生徒のみなさんは、体をやすめてください。

校長 湯口 和弘

オススメの本(第3回)

今回は学校司書の先生に、オススメの本を紹介していただきました。

「君の膵臓をたべたい」(住野よる・著/双葉社)

2016年の本屋大賞、第2位に選ばれた作品です。この本は、中高生から絶大な人気を得ています。 人と関わることに無関心な僕と、死の間近にいる天真爛漫な彼女。正反対の2人は、やがてお互いになくてはならない存在になっていきます。 恋愛を超えた純愛とでもいうんでしょうか、ありふれた言葉では表しきれない関係は、何か、「生きる」ということに対する憧れのように感じました。
そして表紙の桜並木は、なんと福井の足羽川をモデルに描かれたものです。(イラストレーターの方が、福井出身)出版社から「青春100%の絵にしてほしい」という依頼を受け、真っ先に思い浮かんだのが、あの桜並木だったそうです。
日常の中の、一つ一つの選択を大切にすること。そして、今日生きているということは、誰にも等しく与えられた奇跡なんだということを、思い出させてくれる作品です。
(ちなみに、住野よるさんの作品は、今年の県立高校の入試問題にも出題されています。)

 

昔は読み、書き、そろばん

昔は習い事といえば、読み、書き、そろばんでした。

では今は何でしょう。

長い間教育に関わってきた経験からいうと、今は読み書き、そろばん、英語ではないでしょうか?

今は、何か読んで理解したら、必ず自分の考えをまとめて表現することが求められています。レポートを書いたりプレゼンをしたりして、入力(学ぶこと)と出力(まとめて発表すること)が一体になっています。だから、本を読むだけですませるのではなく、その本の中で気に入った部分をノートに書き出したり、感想を書いてみたりすると、高校や大学、社会人になってずいぶん役にたつと思います。(自分も本を読んでいるとき、気にいった部分や思いがけない部分に線をひいて、それをあとでノートに書き写していました。)

本は今、売れているそうです。時間をつぶすのに読書ほどいいものはありません。まずは、自分がおもしろそうだなと思う本を読んでみましょう。1冊読んでおもしろかったら、その作家の別の本を読むのはとてもいいことです。そうやって、どんどん興味の輪を広げていきましょう。こんな読み方もあります。中国の「三国志」が好きなひとは多いでしょう。「三国志」を読んだら、日本の戦国時代の本を読んでみる。今、NHKの大河ドラマは「麒麟がくる」です。明智光秀の話ですが、織田信長や斎藤道三に興味があるなら、司馬遼太郎の「国盗り物語」を読んでみる、というように少しずつ範囲をひろげていくのです。一つの作品や作家を中心に、関連するものを読んでいく、読み終わったら、200字ぐらいの感想を書いておくと学校の授業のかわりにもなり、十分おつりもくると思います。早い時期からやりはじめると、いっそう効果があります。何かとじっくり向き合う時間は大切です。そこから、子どもの未来が見えてくると思います。

そろばんと英語については、また機会があれば書いてみたいと思います。

追伸 音楽の先生に、「大切なもの」を弾いていただきました。学校からのお便りの臨時休業関係のフォルダに入れておきました。歌ってみてください。

こんな時だからこそ、本を読もう!

今、本屋さんに行くと県内の高校がオススメする本を紹介するコーナーがある。新入生への課題図書だ。その中に「ポーツマスの旗 ー外相・小村寿太郎ー」という本がある。作者は吉村 昭という人で、奥さんが福井市出身の津村節子さんなので、本県にもゆかりがある。歴史の授業で習ったと思うが、日露戦争後のポーツマス講和条約締結の交渉を行った中心人物が小村寿太郎である。この本を読んでいくと、多くの人が戦争に巻き込まれ、幸せな人生を奪われていくが、その中で強く生きていく人の姿が描かれている。今回の新型コロナウイルスのせいで、ついさっきまで、そこにあった幸せな学校生活が奪われてしまったと思っているかもしれない。なぜ、自分たちの時に、と恨んでいるかもしれない。でも歴史を振り返ってみると、こんな出来事は何度もあって、困難に負けず、一生懸命生きようとした人がいたことは、例えばこの本を読むとよくわかる。本を読むということは、人の生き様を知ることであり、自分が生きる意味や生きる勇気を学ぶことになる。こんな時こそ、苦難に負けなかった人について書かれた本を読んでほしい。オススメはいくらでもある。でも、いつか必ず読んでほしいのは、司馬遼太郎の「坂の上の雲」と「竜馬がゆく」だ。

 

好きこそものの上手なれ!

将棋界の天才といえば、羽生善治さんが浮かびます。その羽生さんは「ずっとやっていられる」というのが才能だと言います。そのことについて述べた文を紹介します。

確かに将棋は才能の世界で、奨励会に入ってくるような子どもはみんな、普通の子に比べて才能がある。羽生さんがそうであるような、明らかな天才だっているわけです。

でも、その子どもたちがプロになって活躍するか、伸び悩んでやめてしまうかの分かれ目は生まれつきの才能にほぼ関係ない。1日8時間、毎日将棋の勉強をする生活を何十年続けられるか、この一点にかかっているというのが羽生さんの話でした。

結局、好きだから続けられるんですよね。羽生さんも将棋のことを考えるのが楽しくて、30年もの間、対局があってもなくても、どんなに疲れていても、毎日5〜6時間は将棋について考えているというんですよ。

「才能って何かっていったら、結局続けられるかどうかだと思います」という羽生さんの話で、僕は「ああ、本当に将棋が好きなんだな」と思いました。 

世界観をつくる 「感性×知性」の仕事術    著者 水野 学 山口 周 朝日新聞出版 2020年

追伸 新1,2年生にワークを配付しています。早めに取りに来ていただけると大変助かります。よろしくお願いします。

 

オススメの本(第2回)

世界のたね  真理を追いもとめる科学の物語  アイリック・ニュート 著  猪苗代英德 訳  NHK出版 1999年

 子供向けの本には大人にとってもいい本がたくさんある。新型コロナウイルス感染拡大のことを考えていた時、この本を思い出したので、ちょっと長いけれども、引用する。

1348年から1350年にかけてヨーロッパでは黒死病、ペストという伝染病が流行し、ヨーロッパの全人口の三分の一が命を奪われ、ヨーロッパ以外の国々でも何百万もの人が死んだ、と述べて次の文が続く。 

「この病は人を選ばなかった。貧しい人びとも裕福な人びとも、おなじようにこの病におかされた。医者たちは、患者がつぎつぎに死んでいくのを、ただ黙って見ているほかなかった。いくら司祭たちが神に祈ったところで、まったくむだだった。

ほんの短期間のあいだに、まわりの人の三分の一が死んでいくという状況がどういうものなのか、きみもちょっと想像してみるといい。きみの町の住民の三分の一が、クラスメートの三人に一人が、家族の三人に一人が、いなくなってしまうんだ。きみなら、そのあとどうやって生きていく? そんなすさまじい災厄のあとに、生き残った人たちはなにを考えていたんだろう? 昔はメディアも世論調査もなかったから、当時の人たちの行動を知ることはむずかしい。でも、おおかたの人は、たぶん、神への信仰を失ったんじゃないだろうか。生涯の大部分を教会に捧げてきた人たちに破局が訪れたとき、助けてくれる神はどこにもいなかったんだから。

その思いは、黒死病がおさまったあとのイタリアで起こったできごとに、少なからず反映しているだろう。大災厄によって社会は完全に麻痺し、多数の農民や労働者がいなくなり、孤児は町にあふれ、修道院や大学は優秀な学僧や学者を失ってしまった。けれども、数十年後、イタリアは復興したんだ。そして、一つの革新的な運動が起こった。」(教科書で習うルネサンス運動の前にはこんなできごとがあったのだ。)

私たち人間は、何度も大きな危機を乗り越えてきた。歴史は、そのことを教えてくれる。科学の歴史に興味があるなら、この本はオススメだ。